Arrow
Arrow
Slider

2016年11月19日、広島県福山市において「福山市デザイン特別講義」が開催された。
講師の榮久庵祥二氏は、日本のインダストリアルデザインのパイオニアである
榮久庵憲司氏を実兄に持ち、自らもデザイン史を研究する社会学者である。

当講義は福山市ものづくり交流館が主催するデザイン振興イベントであり、
榮久庵氏の講義を第一部、地元コメンテーターとコーディネーターを加えた
ディスカッションを第二部とした二部構成で開催された。

■私の生い立ち

私、生まれは東京なんですが、終戦直前の7歳の頃、母の出所である神石郡小畠村(現、神石高原町小畠)に移り、半年ほど親戚に身を寄せていました。そこは、うさぎ追いしかの山・・・の唄そのもののような場所で、今でも鮮明に覚えています。
その後、父の姉がいる沼隈郡の鞆(現、福山市鞆町)へ移り、私は鞆小学校へ1年間通いました。その後、今日に至るまで長らく東京住まいを続けることになるのですが、人から故郷はどこかと尋ねられると「広島」と答えているほど、自分にとってはこの記憶が桃源郷となっています。
私は大学で社会学という、何ともつかみ所のない分野を専攻しました。そのおかげか、その後もデザインという、これまたつかみ所のない世界に入ることになりました。それは半ば、兄(榮久庵憲司氏)に拉致されるような格好でしたが(笑)、GKデザイン研究所に35年勤めました。そこで私はデザインそのものではなく、デザインを取囲む様々な事柄の研究、執筆、翻訳などにたずさわりました。ただ、まわりがみんなデザイナーですから、研究職でありながらクリエイティブにものを考える習慣がつきましたね。その後、大学へ移りますが、そこでもデザインの発想法であるデザインシンキングとはいかなるものか、などをテーマにやってきました。
現在は非常勤で、大学院での4科目を担当しています。今日はその講義の中から要点を抜粋、加筆した内容でお話しさせていただこうと思います。デザインといえば、モノそのもの、建物や都市そのものといった物理的な事象を中心に話すのが通例ですが、私の場合は人と社会の観点からデザインを考える、ということに絞ってお話しを進めてみたいと思います。

■デザインとの出合い〜白い扇風機

大学の1年生の夏、東京の実家の畳の上で昼寝をしていました。乳白色の扇風機の風をなにげに受けていましたが、その羽根がゆっくり止まる時にみせるカタチ、光景が何と美しいんだろうと感銘を受けました。一体その美しさは、何に由来するのだろうと自問したのを覚えています。そこには伝統や歴史の影はなく、コミュニティの痕跡もない。ほんとに純粋に抽象的な美としてそこに存在していたように見えました。このことがいずれ、私をデザインの道へいざなうきっかけになったとも思えます。

■近代デザインの起源とその哲学

さてそのデザイン。19世紀の後半、イギリスに起源を持っています。その中心人物がウィリアム・モリスという人でした。いろんな顔を持つ人で、工芸復興運動の指導者として有名ですが、加えて職人であり、芸術家であり、詩人。そして社会主義者でもありました。この人は芸術、工芸品に見られる階級制を憎みました。すなわち、エリートのための美術、芸術ではなく、一般の人々のためのそれの必要を主張しました。
その当時のイギリスは世界の先進国で、産業革命により工場で量産される機械製品たちが美しくないことが市民の不満であり、それに応えるように、装飾的要素が付加されるということが横行していました。それらはゴシックであったり、ロマネスクであったり、言わば「歴史様式のつまみ食い」とも言える装飾をまとった製品があふれていたのです。こうした偽装や欺瞞がモリスをして運動に駆り立てた原因となりました。よって近代デザインは、倫理性の希求がバックボーンになって発祥したと言えます。

■デザインの変貌

そんな日本のデザインの黎明期でしたが、やがて1960年代の終わり頃から、デザインの性格は変化し始めます。まず、無彩色を基調としたものに有彩色が入り始め、デザインの表装も多様になります。さらに技術の進歩により、機能要素が小型化、高性能化することでデザインの自由度が増します。カタチが機能から解放された時代と言えます。これまで排除されていた曲線も、デザインのボキャブラリとして復権しました。これをデザイン史的には、モダンの時代からポストモダンへの移行とされます。モダンの時代までは、製品はまず壊れないこと、性能が良いことを目指し、それが満たされるとさらに使いやすく、形も道具として美しいことが目指されました。米国の心理学者マズローによる欲求の階層説では、欲求の最上位は自己実現となっていますが、デザインにおいても同様に考えられ、形が美しいことの上位には、自己表現がかなうデザインの実現が置かれると考えます。この自己表現への移行の役割を果たしたのがポストモダンでした。ポストモダンのムーブメント自体は10年程度しか続きませんでしたが、そこには一定の成果があると思います。凝り固まったモダンデザインの肩を揉んで、柔らかくしてあげたとも言えそうです。
ポストモダン時代の製品に多く見られるのは、多用される曲線や豊富なカラーリング。禁欲的なモダンに対して、ポストモダンは欲求を我慢しない楽天主義に支えられています。そもそも我慢というのは中流階級の倫理観ですね。この頃の世の中では、中流意識脱却の意識が感じられました。イタリアのデザイナーであり理論家であるアンドレア・ブランジ氏はこの時期、思想や統一よりも、差異と例外を強調することがデザインの役割だ、という意のことを言っています。

■社会性を帯びるデザイン

ポストモダンはバブル経済と大変相性の良いものでしたが、1990年代後半のバブル崩壊を迎えると、デザインは造形への視点ではなく、より広く社会的な課題に直面するようになります。操作の分かりやすさ、高齢者をはじめいかなる人にも使いやすいこと、より少ない材料で使用価値が高く、またリサイクルのしやすいこと、長年の使用や愛着に堪え得ることなどは、デザインに直接問われることになりました。また、過剰な自動化の抑制や、歴史と革新の共存、地域における資源の最大活用といったことも、大きくデザインを取り巻く状況にあると言えるでしょう。そもそもデザインとは「生活の質の向上」を目指すものだと考えれば、いたずらに目新しいものを作るよりは、あえてデザインしないというデザインのあり方も考慮に入れる必要を感じます。例えば、空き地には何もないのですが、そこには意味や価値がないわけではありません。空き地は空き地として保っておく方が良い場合もあるということです。昔のお寺の境内は何もないオープンスペースだったことに意義がありました。

■モノと社会の関係を考える

モダンの時代は壊れず、使いやすく、美しい道具を作ることが目指されたと申しました。しかし現代はそれ以前に、モノ自体が溢れ返っているという初源的課題に直面しています。今あえて、道具とモノという使い分けをしましたが、その理由はこうです。工場で作られた段階では、モノは「製品」です。それが流通することによって「商品」になります。そして、購入して誰かの営みの場に持ち込まれると、それが「道具」となるわけです。つまりモノが道具となって初めて人や社会とのつながりが見えてくるのです。私が所属していたGKデザイン研究所でも、1960年代くらいから「道具」をテーマに様々な研究に取り組んできましたが、その背景にもこのような考え方があります。

吉田兼好の徒然草の中に、このような記述があります。「筆をとれば自ずから文章が書かれ、楽器をとれば音を立てて奏でようと思う。盃をもてば酒が飲みたくなり、賽を持てば賭け事がしたくなる。心は必ず事物に触れて生じる。だから、かりにも善からぬ戯れ事をするものではない。」これは今の時代も変わらないことだと思いますが、人間が道具を作り、また道具が人間を作る、ということを指摘しています。道具は人間の下位に位置するものではなく、同等の関係に見る視点ですね。
モノが溢れ返る現代だからこそ、この視点が大事に思えます。徒然草のこのくだりは、出来(しゅったい)こそ古いものの、内容においては非常に新しいことを示しているように思えます。

さてそんな道具ですが、その存在のあり方は近年変化しています。まず、共有・共用から私有・私用へという変化。共同で使用していた井戸が所帯単位での水道となり、さらに個人単位でのペットボトルになったことや、街頭テレビがいずれ所帯単位、さらに個人単位の所有になったことなどが良い例ですね。
次に「施設」が道具化した、という現象があります。例えば音響施設であるステレオ。昔は家具調のステレオが一家にせいぜい据置きの1台でしたね。それが今や音楽プレーヤーは個人単位で所有してます。
この二つの例をまとめて少し専門的な言い方をしますと、ソシオペタル(人どうしを集める)から、ソシオフューガル(人を離散させる)方向へ道具のあり方が変化したということです。それによって社会生活の最小単位としてのコミュニティのあり方も変わってきました。携帯電話に代表される情報メディアによって、家庭や近隣コミュニティを介さずとも、個人が直接社会とつながることができるのが現代です。

■倫理性 / 禁欲性

倫理性は時として非常に禁欲的なデザインに結びつきます。1960年代にまで続く、近代デザインの特徴は、ソフト面では倫理性、禁欲性。カタチ面では無彩色で直線的、幾何学的というのが挙げられます。1920年代においては、まだ実験的であったこのデザインの近代化は、1960年代にはもう量産化に入っていて、どんどん世の中に新風を吹き込んでいきました。ある社会学者は、このような単純で無愛想な表装の傾向を「中産階級の美学」と呼びました。下層階級も上流階級もより装飾的なものを好みます。この時代、世の中の中流階級化と近代デザインの特徴がぴったり合ったと言えるかと思います。

■機械のイメージ

改めて、近代デザインは機械工学と抽象美術の合体による産物と言えます。1920年代に起きたデ・スティルという芸術・デザイン運動がありました。ピエト・モンドリアンの作品などに見られる抽象表現は、機械と非常に相性が良かったわけです。逆に言えば、抽象美術しか機械に受け入れられなかったということになります。抽象美術の牽引者、ヴァシリー・カンディンスキーやパウル・クレーが近代デザインの実践的な学校であったバウハウスで教鞭を執っていたことも、このことを象徴すると言えます。
これは近代デザインの造形面での傾向ですが、一方で哲学の面はどうでしょう。それを示す二つの有名はことばがあります。「カタチは機能に従う」、米国の建築家ルイス・サリヴァンのことばですね。カタチはそれのみで存在するのではなく、機能をフォローすることによってのみ生まれる、ということです。もうひとつ、「より少ないことは、より豊かなこと」、建築家でバウハウスの最後の校長でもあった、ミース・ファン・デル・ローエのことばです。余計なものを取り去って、より少ない要素で物事が成り立つ状態こそが豊かである、ということ。このふたつに限らないかもしれませんが、このような哲学をもって、近代デザインが推し進められたと言ってよいと思います。
米国の工業デザイナー、ウォルター・ドーウィン・ティーグや、同じく米国の彫刻家、ホレーショ・グリノーが残したことばからも、装飾を廃して実質そのものを体現させるという思想がこの時代の生活様式を作っていったと思われます。

■日本におけるデザイン

このように、デザインというのは西洋を発端にしますが、では日本ではどうであったか。日本では1940年代の後半、デザインとは何であるかという、概念の模索から始まりました。当時、千葉大学の哲学者、小池新二先生は、デザインとは「設計」であるという意の定義をなさってます。学習院大学の社会学者、清水幾太郎先生は、デザインとは「計画」である、と仰ってます。いずれも色やカタチを離れて、抑制的かつ広い意味での定義をなさっていました。
思想的にはこのようにスタートした日本のデザイン。専門職としてのデザインが興ってきたのは、それから10年ほど遅れて1950年代の半ばからくらいです。いくつかのデザイン事務所や東京造形大学ができたのもこの頃。私が務めていたGKデザイン研究所もこの時期に発足しました。米国外遊から戻った松下幸之助氏が「これからはデザインの時代やで」と言ったことも、日本におけるデザイン定着のきっかけとして有名な話です。また、米国人デザイナー、レイモンド・ローウィ氏によるたばこのピースのパッケージデザイン料が大変高額であったことなども、デザインへの注目度を上げる逸話となりました。
その頃の成果としては、イサム・ノグチ氏、渡辺力氏、柳宗理氏などに見られる、工芸的なニュアンスを巧みに取り入れたものから、工場で作って現場では置くだけの鋼板製電話ボックスなど、まさに工業的アプローチを活かしたものまでありました。

■これからのデザインの役割

個人主義が悪いものだとは申しませんが、それと併行して共用・共有の文化が継承できないか、というのが私のデザインへの問いかけです。その推進のきっかけづくりために、これからのデザインの役割について、私なりに再考してみました。
デザイン行為というのは、個性やアイデンティティという現代社会を生きるに必須な表現をすることです。これからのデザイン行為はモノを対象にするだけではなく、人、街、企業という広い範囲を常に意識して試みられるべきでしょう。
また、デザインには自ずと世界共通の国際言語的要素を孕んでいます。文化的背景を異にする人々の間で、意志の疎通を可能にするメディアであることを改めて認識すべきだと考えます。
そして、デザイン行為とは他者とコミュニケーションしたいという意志を持ち、未来をつくる行為ですから、その根底には楽観主義があり、ポジティブであることに疑問を感じる余地はありません。
続いて第二部ではコメンテーターに地元デザイナーの久良俊道氏、コーディネーターとして
GKデザイングループの弥中敏和氏を加えたディスカッションを行なった。
榮久庵祥二さんのお話は、西洋における近代デザインの発祥と変遷、それがいかに日本に導入され今日まで来たか、また今後どのように引継がれるべきかといった、デザインを大きく俯瞰するような内容で、大変勉強になりました。
さてその話しを受けて、今度はこの福山地域に目を向け、この地でのデザインがどうあるべきかについて深堀してゆけたらと思います。
今日、地元コメンテーターとしてお呼びした久良さんは、福山で長らく、且つ精力的にデザイン振興に取り組んでこられた方です。
これまでデザイン振興に関わる運動は、福山地方産業デザイン振興協会、せとうちデザイン振興会などを通してやってきましたし、その成果は今も残るものがあるのですが、運動としては現在は中断状態にあります。しかし、中断から学んだものもあります。ひとつは、運動主体が「デザイン概念とその実体」の整理ができていなかったことが挙げられます。先ほどの榮久庵先生のお話にあったような、デザインとは何か、何をなすべきかの整理ですね。なかなか難しい作業ですが、この問いに応えておかないと、いつまでもデザインの概念整理の課題は亡霊のように現われ悩まされることになります。
そのほか、主体になるデザイナーの経営能力不足、行政・関連団体職員のデザインに対する理解の深度不足も挙げられます。
久良さんにうかがうと、これまでの福山のデザインに対する取り組みは永く、多彩で実績もあって、デザイン後進国どころか、むしろ日本でデザインに注目が集まった時にしっかりと働いていることが分かります。ただ、デザインセンターはじめ、そのコアになるところは継続できておらず中断状態で現在に至っているということでした。
たしかに福山といえば、ナンバーワン企業も多く、福山発の事柄も多い。誇りに思えそうな要素は多いのに、福山のアイデンティティとしてはなかなか収束しない。せっかくのデザイン振興の取り組みもその都度打ち上がっては消えてゆく・・・。
今、福山市は自らのブランド化に取り組んでいますが、新しいインパクトがないとなかなかブランドの確立が難しいと思っています。たしかに福山には注目に値するものはいろいろあるにはあるのですが、どれも強烈なインパクトには欠けます。私は長年、デザイン振興に取り組んできましたし、それなりの成果も積み上げてきたつもりですが、ブレイクスルーを生む原動力にはなっていません。やはり既存のものにはブランドになるインパクトが足りないんですね。
私が久良さんに出会った時、一番不思議だったのは古墳を研究していらしたことです。趣味的な郷土史研究かと思っていたのですが、ご本人は違うと仰る。デザイン振興に真剣に取り組んでいくうちに、ここにたどり着かざるを得なかった、と言うのです。それはそのインパクトのためですか。
私は今、「飛鳥時代・吉備福山中枢説」を発表し、研究しています。古代日本においては、大和、出雲、吉備、九州が日本の国造りの拠点であり、最高の地域ブランドです。その吉備における中枢は、実は福山であった、というのが私の説です。続日本紀に、吉備分国後の備後・備前・備中の中で備後国守の階位が高く、備中はもちろん、安芸、周防までも治めていたことがはっきり記されています。そして大和と共通した神社がこれだけ集積した場所はありません。ひょっとしたら、日本一神社が多い地域なのかもしれません。支配者の信仰であった妙見信仰の社寺に関しても市レベルで言えば日本一です。飛鳥時代の大和朝廷に直結するような後期、終末期古墳の集積も異常なほどある。この異常な集中や、瀬戸内海・出雲との交通関係を考えても、備後が吉備の中枢であったことは自然な解釈だと思うのです。
古代の吉備中枢であったことと、現代の私たちへの関わりについてはどうなんでしょう。
古代からこの地には多くの金属鉱床があって金属冶金が発展していたんですね。その他、はた織りも発達しました。製鉄業や繊維業、もちろんそれだけに限りませんが、今、福山にある産業基盤は実は古代からの流れがあるんですよ。そして、交通の要衝・地政学上の優位性、そういうことを改めて発見してゆく必要があると感じます。
この地がいかなるものであったかに正しく向き合い、現代へつなげる前向きな解釈をすべし、ということですね。
私はデザインの役目はそこだと思うんですよね。新しいことを発見すること。新しい考え方をつくる、ということ。
そのために吉備福山中枢説の研究を続けているのですが、行政は学者が認めたものしか触りたがりません。いきなり私が備後は吉備の中心だと叫んでも、そうだそうだとはならない。まずは民間レベルで働きかけて、時間をかけて理解してもらわざるを得ないでしょう。
榮久庵祥二さんのお話では、デザインは西洋発祥で日本には戦後、「設計」や「計画」という定義を生みながら、いわば「工業型モデル」をまとって入ってきたようにうかがいました。つまり工業製品を生産するうえで必要な概念として入ってきた。それが近年ではモノづくりだけでなく、モノ・コトの仕組みや関連性にまで対象が及んできた、ということかと思います。
私は、今変わろうとしているのはデザインだけではなくて、人々の暮らしぶりというか、日本の社会の変曲点にきているように感じます。戦後70年、現在に至るまで私たちが続けてきたことは「復興」ではなかったか。ほんとはもっと以前に復興を終えていても良かったのに、行政を中心とした社会システムが、復興のロジックを固持したままここまで「来てしまった」のではないかと思います。それでさすがに復興も飽和して、今いろんなことが見直されようとしているのではないでしょうか。
「ばらの街、福山」は戦後の復興から始まりました。市制100周年を迎え、100万本のばらづくりもメドがついた。まさに復興から次のビジョンへの切り換えが必要に思います。私はよく「福山をハウステンボスみたいにしよう」と言います。あそこには季節毎の花づくりはもちろんのこと、AIやIoT、バイオなどの先進の技術や都市インフラがあります。そういう最先端技術と人にとって心地よいものが揃ったまちづくりが福山に相応しいように考えます。もちろん、オランダの街並みのコピーを作ろうと申し上げているのではありません(笑)。
榮久庵祥二さんが講義のなかで紹介くださった、マズローの「欲求段階説」でいうと、街も復興を終えてひとつ上の段階へ進もう、ということですね。
そうですね。新しい時代価値をもった段階に進むと思えばよいと思います。これまでは工業主体に考えられてきた経済価値も、これからは文化(情報)主体で捉えることになろうかと考えます。文化がおカネになるのかと問われそうですが、例えば京都は文化都市として成り立っていますよね。モノを作って流通させて売る、ということだけではなくて、茶道のように道具の価値と庭の価値と作法の価値が深く関連しながら経済を成立させる、ということは可能に思えます。クリエイティブ産業とは、そういうことを指しているのではないでしょうか。
もうひとつ祥二さんのお話を引用させていただくと、デザインは楽天主義に支えられる、というのがありましたね。厳しい、困難だ、とネガティブに考えるのではなくて、厳しい中にもこういう良いことがある、というポジティブさが要るということかと思います。
福山の中心市街地はモータリゼーションによって空洞化している現状があるのですが、こういうことはどう考えますか。
時代に求められる交通体系に対応しない街は廃れる、という事実からは免れられません。海運においては港、鉄道においては駅が栄えますよね。モータリゼーションが主体の今の福山では、自家用車の利用が困難であれば、やはり人は来ないということです。駐車場を整備するにしても、大事なのは港や駅同様、無料で使用できることです。無料化することによって、人が戻ってきて、土地所有者が駐車場経営の収入以上の経済効果を狙うくらいのことを、行政が本気でやらないと変わらないと思います。
市街地から自家用車を締め出そうという発想は随分以前から先進国にはあるのですが、福山では逆に、自家用車が最高に利用しやすい都心づくりを目指す、というのもあり得ますよね。他がやってないからやらない、という復興のロジックを捨てて、福山にこそ新しい地方都市の成長モデルを描いて欲しいですね。
(福山市の)新市長の枝廣さんがその点、張りきってまいすから、期待したいですね。
私も古代史を研究するまでは、モヤモヤしたところがあったのですが、福山が吉備の中枢であり、聖徳太子(法隆寺)とも縁が深い地域であることが分かってきて、だんだん自信につながってきました。これも太子のお導きだろうと(笑)。努力すれば光明は見えてくるものです。じっとしていてはいけません。
久良さんのお話から、かつて福山ではデザイン振興活動が盛んであったことが分かりますが、では何故、福山市にはデザインもしくは芸術系の(大学の)学部ができなかったのでしょうか。
学部の開設に関しては、振興活動自体が結果として非力であった、というのは言えると思います。そもそもデザインとは変革なので、既得権益者、既得知識者からの反発があるわけです。それに打ち勝とうとすれば何十倍も努力が要ります。それと、やはりデザインはつかみ所がないというか、万人に分かりやすいものになっていないので、行政を本気にさせるような説得が、デザイナー側にもできなかった、ということかと思います。
その一方、何かを成そうと思えば時間が掛かるというのも事実です。100万本のばらの達成も私が標語を提案して30年掛かったわけですし。更地に何か建てるわけでなく、既にあるものを変えていこうとするのであれば、気長な努力というのは必要でしょうね。
先にも申しましたが、人の気持ちが入れ替わるまでには70年掛かる、という気がしています。戦後今まで、ずっと復興ロジックにすがってきたのも、そういうことが根底にあるのではないでしょうか。
日本の地方都市が横並びで復興を遂げてきたとしたら、そろそろ復興を抜け出す都市が出てきても良いはずです。私としてはこの福山に脱復興の第一号になってもらいたい、という気持ちが大きいです。祥二さんはいかがですか。
お話しを聴いて、久良さんのような情熱あるひとがもう数人いてくれると、福山は安泰という気がしました(笑)。ぜひ若い世代なんかも巻込んで続けていただきたいです。
行政サイドの取り組みも大事ですが、備後デザインサロンをはじめ、民間サイドで若い人が頑張ってくれています。私はひとりコツコツとまちづくりとデザインの研究を続けようと思っていましたが、榮久庵憲司先生が亡くなる前、弥中さんに「福山を頼んだ」と仰ったと聞いて、地元の私ももうひと踏ん張りしなければいけないのかな、と感じてます(笑)。